もくじ

● そこはかとなく日常  ●

「お兄ちゃん、事件だよ!」
 息も切れ切れに、慌てたようにコトミがドアを勢いよく開けて入ってくるのが分かった。が、俺はそんな事お構い無しに、半分夢の世界に埋没していた。
「お兄ちゃん起きてよ! 事件だよ!」
 コトミがゆさゆさと俺を揺さぶり、起こそうとする。可愛い妹に起こされたら起きるしかあるまい。と平日は思えるのだが、さすがは休日、当社比一・五倍で睡魔さんが勝っている。
 事件だろうが、何だろうが、睡魔の方が上なのだ。きっと火事が起こっていても、俺は眠り続けるだろう。
「お兄ちゃん、いい加減起きないと顔の上にサッカーボール落とすよ?」
 ……それはそれで嫌だけど、サッカーボールってスピードついてないと、さほど痛くない。ゆえに問題ない。継続して眠れ――
「反応ないから落とすね」
 って、落とすの早いよ! 起きる気はないが、もう少し猶予を与えろよ! 心の中で叫んでも意味ない事は承知しているので、緊急避難。俺は毛布の中へと完全に潜り込む。と同時にぽふっと、ボールが毛布上に着弾。危機は回避されたらしい。
「あー、お兄ちゃん、避けた! 起きてるなら、ちゃんと返事してよ!」
「……ただいま、熟睡しております。御用の方は、ぐうぐうとなりましたら、三時間後にお越しください。……ぐうぐう」
 そう、俺は熟睡中なのだ。熟睡中の身で意図的に避けれるわけがない。それは人間の防衛機能による素晴らしき無意識の所業なのだ。そして、無意識下でマトモに返事できるわけがないのだ。そういう事にしておこう。
「お兄ちゃん、起きてるよね?」
 ……。
「だんまり?」
 はい、だんまりです。
「泣くよ?」
 それは勘弁願いたいんだが。
「お父さんに言いつけるよ?」
 俺に泣かされたと言いつけるのか、親父に。
「お兄ちゃんにあんな事やこんな事されたって」
 って、おい! あんな事やこんな事って何だよ!?
「ふんだ、もういいよ」
「って、待て! コトミ! 濡れ衣を着せるな!」
 俺は慌てた起き上がり、拗ねて出て行こうとするコトミの手を掴んだ。
「おはよー、お兄ちゃん」
 拗ねた表情から一転、満面の笑みを湛えて俺に挨拶をする。現金な奴だ。
「おはようコトミ君。ところで、だね。あんな事やこんな事って何ですか。あんな事やこんな事って」
「ええとね、それはね。お兄ちゃんが、わたしの入浴姿を覗こうとした事とかだよ」
「は? 俺が覗き? ちょっと待て。記憶を辿ってみる」
 そうだ。いつかは忘れたが、とにかく疲れて家に帰った来た時の事だ。ささっと風呂に浸かって、そそくさ寝ようと思い、風呂に直行したのだ。いつもなら誰かいるか確認して、洗面所兼脱衣所に入るのだが、その日は確認もせずに入った。そうしたら、そこには、服を脱ぎかけのコトミがいた。両者一瞬固まり、その後、悲鳴と共にコトミに上着を投げつけられた事は、今でも忘れられない(ついでに、育つトコは育っていた事も)。それと似たような事は、他にもあった気がする。つまり、これがあんな事こんな事の正体か。親父に報告される際は、尾鰭やら背鰭やらが引っ付きそうだな。
「コトミ君コトミ君、あれは世に言う『フカコウリョク』と言うものだよ。断じて意図的なものではない」
「そうなの?」
「そもそも、正面から覗きに来る馬鹿がどこにいるのだね」
「んー、お兄ちゃんとか」
 そうですか。俺は馬鹿決定ですか。即断された事にむなしさを覚えるよ。
「もういいや。俺はまた寝る」
 のらりくらりと俺は、マイベッドの中へと戻っていく。
「ああ、お兄ちゃん、寝ないでよ! 事件、事件!」
 そう言えば、そんなこと言ってたっけ、完全に忘れていた。まあ、せっかく起きたから、少しくらいなら聞いてもいいか。
「はいはい、分かったよ。事件ね。何があったんだ?」
 俺は毛布に潜るのを止め、ベッドに座りなおして聞いた。
「サンマがなくなったの!」
「ふうん、あの某芸能人がお亡くなりに?」
「違うよ! お魚の方の秋刀魚! 昨日、お兄ちゃんが食べなくて、そのままにしてた焼き秋刀魚!」
「ああ、そう。秋刀魚の命も無駄にならなくてすんだね。きっと誰かが食べるために持って行ったんだよ」
「もぉ、お兄ちゃんは、何で秋刀魚が消えたか知りたくないの!?」
 ……知らなくていいよ、と思うのだが、コトミは知りたいのだろう。いや、もう既に知ってて、その事を俺に言いたくて言いたくて、たまらないのかもしれない。俺の安眠妨害をしてでも、そうしたいのだ。
「……お前は何で秋刀魚が消えたか知ってるのか?」
「うん!」
「で、何で消えたんだ?」
「食べられたの!」
 模範的解答だ。
「誰に食べられたかは分かっているのか?」
「うん! 今から犯人を連れてくるね!」
 犯人はすでに逮捕済みかよ。どうでもいいのだが罪状は、不法侵入と無銭飲食だろうか。などと考えている間に、コトミはパタパタと駆け出していった。
 犯人といっても、高が知れている。ずばり猫だろう。魚泥棒と言えば猫で大方決まりだ。どこぞの野良犬が、人の家に玄関から堂々と上がってこない限りはだが。
 それから、遠方で少しドッタンバッタン聞こえた後、息切れしたコトミが戻ってきた。犯人と格闘してきたのだろう。ご苦労な事だ。
「犯人はこの子です!」
 ずいっとコトミは両手で掴んだ犯人を差し出した。黒と白の毛並みが綺麗な小動物で耳が長くて愛らしい感じが漂っている。って、ちょっと待て、コトミ。
「こいつは、兎……だよな?」
「うん、そうだよ」
「なあ、コトミ、一つ聞いていいか?」
「ん、何?」
 笑顔でコトミが首をかしげる。笑顔のコトミには非常に言いにくいのだが、
「兎は草食だから、秋刀魚は食わないと思うが?」
「あ……そ、それはねえ。ええと……この兎さんは、とってもお腹が空いてて、ついつい秋刀魚を食べちゃったんだよ」
 確かに極限状態になれば、草食動物も肉食になるだろうが、かなり苦しい弁解だ。と言うより、苦しい弁解する前から、草食だと言うことを考えとけよ。それに、兎は猫ほど器用じゃないぞ。どこから入って来るんだよ。
「まあ、いいや。この兎がどこからともなく現れて、秋刀魚を食べてしまったとしよう。それで、この兎をどうするつもりだ?」
「この兎さんは、腹ペコでとてもかわいそうだから、うちで面倒見てあげたいなあ。なんて……ダメ、かな?」
 それが本音か。この兎は、おそらく捨て猫ならぬ捨て兎なのだろう。それを拾ってきて、どうにかこうにか屁理屈こねて、我が家で飼うように仕向けたかったのだろう。その企みは綻びだらけで見事失敗しているが。そもそも、飼いたいなら飼いたいで、遠まわしに言わず、はっきり言えばいいのだ。
「なあ、親父には聞いたか?」
 ふるふるとコトミは首を振る。
「お兄ちゃんから、許可とって連絡しようと思って……」
 徐々に声は小さくなり、最初の元気など、どこかへ行ってしまったようだ。もう少し計画性を持った方がいい気もするが、コトミの場合無理だろう。彼女は、少し(かなり)間の抜けたお人好しなのだ。
「はあ……コトミ、責任持って、こいつの面倒見ろよ。親父には俺から話つけとくから」
「え?」
「だから、こいつの面倒はお前が見ろ。親父に話はつけるが俺は知らん」
「あ」
「俺は寝る。一睡したら、親父に連絡取る。以上」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
 コトミは、兎を投げ出すと躊躇なく俺に飛びついてきた。
「だああ、抱きつくな!」
「ありがとう、お兄ちゃん。愛してる!」
「愛してるは、彼氏でも作ってから、そいつにでも言え!」
「照れなくてもいいよ、お兄ちゃん。愛してるって言われてうれしいんでしょう?」
「妹に言われて、誰が照れるかっ!」
「妹は妹でも、わたしは義妹だよ」
「関係ねえ!」
「それにお兄ちゃん、嫌がってる素振り見せてるのに、わたしを引き離そうとしないよ。気持ちいいんでしょぉ」
 いや、確かに、当たっている胸の感触が……って違う! 無理矢理、離そうとして、悲鳴でも上げられたら、完全に俺が悪者ではないか! それだけは避けたい。出来れば、コトミの意思で離れてもらいたい。
「いい加減離れろ、コトミ! このままでは、寝れんではないか!」
「もう少しこのままでいさせてよぉ。それとも、添い寝しようか?」
「止めてくれ、それは。お願いだから。それより、コトミ、脱走した犯人捕まえて来い。面倒見るのは、お前の役目だろう」
 部屋に兎の姿はない。コトミは「あ!」と声を上げると、俺から離れ、兎を探しに急いで部屋から出て行った。優先順位は、兎の方が上か。安心したような寂しいようなそんな気分だ。だが、今はそんな事はどうでもいい。次は親父との舌戦が待っていると言うのに、とにかく疲れた。寝よう。
 ベッドに横になって睡魔に襲われる中、視界の端にぼんやりと兎が入ったのは、なかった事にしよう。
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